oekakizamurai’s diary

赤い仮面は謎の人、どんな顔だか内緒だよ

ごめんね、といわれるとなんだかせつない

野外のスケッチであんなふうに色が出せたらどんなに楽しいだろうと、ときどき柴崎春通さんの水彩チャンネルを観ていた。もちろん、何十年ものキャリアを積み重ねたプロに及ぶべくもないのだけど、具体的な技法も説明してくれるし、紹介された絵具や道具を求めて、何年か練習したらちょっとは近くなれるんじゃないかな、と期待しながら。でも実際に描いてみても全然ダメ、改善の気配すら感じられない。プロはアトリエ環境で計画的に作品を仕上げるものなのだろうけど、動画のいくつかは現場で描いているので、現場スケッチを重ねていけば、ある日なにか悟るときがくるといいな、と期待したのだ。

でもそこは素人の浅ましさ。数か月変化が見られないとなんか根本的に違ってるんじゃないかと思っていろんな本を買って、そうかーマスキング液ってのがあるのかー、とかいまさらなことを知った。これは、水彩スケッチでハイライトは白く残す必要があるのだけど、小さい部分や細い線をちまちま残せないから、必要な技術なのだ。だけどこれって片手にスケッチブックとパレット掴んで立ったまま仕上げる現場じゃ使えないじゃん。柴崎さんの動画ではマスキングなんかしなくてもペンナイフのひっかきで思い通りに白抜きができているんだけど、どうもうまくできない。なにか根本的な勘違いがあるのかな?

・・・なんて彼我の差を局所的な技術習得の有無に矮小化して、いつものように仕事から逃避して柴崎チャンネルにアクセスしたら・・・

www.youtube.comうん。私が間違ってた。

(でもどうか無理なさらず、素敵なレッスンを続けてください。楽しみにしてます)

プロの仕事

完全ネタバレ級の書評

分断差別の歴史を超えて和解へ 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』(1) : 書籍 : クリスチャントゥデイがあるけれど、それを見てもなお読むべき本。

取材対象の嘘を見過ごさない妥協なき丹念な取材はもの書きの基本を教えてくれる。

https://i2.wp.com/www.kyobunkwan.co.jp/xbook/files/2016/07/7qy8pp70.jpg?w=135&ssl=1

まずは睡眠

復活の日曜日。

冴えないままに朝起きて、やはりぼんやりネット見て、これじゃあいかんと水出しコーヒー(IwakiのPyrex)をセットしようとしたら、漏斗から水が落ちてこない。

ああ、おまえも同病だな、と治療法をググって、ミョーなかんじだが、水入れて下から吸えば回復してくれた。多少水苔を飲んだかもしれない。

飲みの誘いメールも、心がダメなんだ、と断り、強い心で昼まで眠る。

(バッテリー9%くらいまで戻せたか)

仕事が何もできない

・・・というツイートを眺めていて、仕事を何もしてねえなあ、と遠い目でつぶやく。

 

目覚めるとビミョーな曇天。

意識の高いしりあいがやっていたことを思い出して、タイマーかけて30分だけ部屋を片付けてお茶を淹れる。

で、いつものようにぼんやりネットみてて、タイトルのツイートに。

半年ぶりにここにきてしまうなんて、どんだけヘタれてんだろ。

くいしんぼうのあおむしくん

はらぺこあおむし、ではない。

八本脚の蝶で紹介されていて、幼児期に読んだ人はトラウマになるとどこかで言及されている絵本である。

福音館書店のサイトから)

ある日、自分の帽子を食べている、そらと同じ色をしたへんな虫に気づく。そいつは帽子を食べながらだんだん大きくなっていく。

「わかったぞ。おまえは ぼうしを たべる わるい むしだろう」

「ごめんね、ぼく……くいしんぼうの あおむしなの」

あおむしくんは、ゴミを食べ、町とともに両親も食べてしまう。主人公はともだちだから食べなかったけど、山の向こうの町を食べ、船を食べ、工場も食べてしまったところで、公害に苦しんでいた町の人達に感謝されるが、感謝の宴とともに町ごと食べてしまう。(あおむしくん、パねぇ!)

世界を食べつくしたところで、涙をためて主人公も食べてしまう。するとそこにあったのは・・・

展開の容赦なさ、そして鮮やかすぎる大どんでん返し。子供にどう読めというのだろう。「死ねば生きられるのに」(アカギ)じゃないよな。

おすしのずかん、とともにプライムで届いた本を閉じて、深く息をつく。

 

八本脚、その後

250ページを越えたあたりから核心に近づいた感じが強まる。未遂の後、休職でなんとか表面的には持ち直したような記述の後に・・・。

しかし、引用されているメールからブログが始まる以前から希死を伴う鬱状態であったことを知らされ、そもそもそのような景色であったことに愕然とする。

どう読めばよかったのだろうか。果てしない闇を覗いてしまったような気がしたのと、例によって未処理仕事に埋もれていた(まだ埋もれてる)のとで、しばらく遠のいてしまった。

 

ここに登場するのは、毎年日数よりも多くの冊数の本を、しかも深刻に、読む人たち。けれどノレるジャンルは限られているから、マジに読める本がそんなにあるとは思えないし、マジに読めばせいぜい月の数くらいしか読めないだろう。

ここに登場するのは、生きていることの意味を求めすぎる人たち。けれど生物としての人間とその社会にそこまでのスペックを求めることは妥当なのか。人の「外」に意味はなかろうし、意味は活動の中で動的に生み出していくくらいしかないように思う。

となると、その感性の鮮烈さと不安定さを抱え、鬱と格闘した心の記録として読むしかなかったのだろうか。